2025年の「24時間テレビ48」で105kmを走り切ったSUPER EIGHTの横山裕さん。
スタート地点で彼が握りしめていたのは、三男から託された栄養ドリンク入りの2リットルペットボトルでした。
これは単なる水分補給ではなく、家族との絆を確かめるお守りのような存在だったのです。
その背景には、幼い頃から抱えてきた複雑な家庭環境があります。
両親の離婚、母の再婚と義父との確執、支えてくれた祖父母、そして弟たちの児童養護施設入所。
壮絶な生い立ちがあったからこそ、横山裕さんにとって「家族の支え」は何よりも大切なものになりました。
この記事では、横山裕さんが弟からの差し入れに込められた想いを通じて、父親との確執や母、祖父母、弟たちとの関係、そして波乱に満ちた半生を振り返ります。
横山裕が握りしめた弟の差し入れ

出典:X(旧Twitter)画像
「24時間テレビ48」で105kmマラソンに挑んだ横山裕さん。
スタート直前の姿を映したカメラに、彼の手には2リットルの大きなペットボトルがありました。
中身は、三男の充(みつる)さんが「めっちゃいいやつもらってきたから」と力説して送ってくれた栄養ドリンクでした。
横山裕さんは「弟が勧めてくれたから持ってきたんです」と笑顔で説明。スタート地点に立つまでの車中でも手放さずに持ち続けていました。
単なる水分補給以上に、「弟が自分を支えてくれている」と実感できる大切な存在。その差し入れを胸に、横山裕さんは105kmの挑戦を走り出したのです。
幼少期の複雑な家庭環境

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横山裕さんは1981年に大阪府で生まれました。3歳のときに両親が離婚し、母子家庭で育ちます。
母・ミナコさん(漢字不明)は仕事を掛け持ちしながら子どもを育て、裕福ではなかったものの、横山裕さんは「母が愛情を注いでくれたから幸せだった」と語っています。
しかし5歳のとき、ミナコさんが再婚。新しい義父が家に入りますが、関係はうまくいかず、幼い横山裕さんは居場所を見失うこともありました。
そんなときに頼ったのが、同じ団地の2階上に住んでいた祖父母でした。祖父母の存在は、義父との関係に悩む横山裕さんにとって大きな救いだったのです。
弟たちの存在と家族の支え

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その後、母と義父との間に二人の弟が誕生します。次男の雅行(まさゆき)さんは横山裕さんの6歳下、三男の充(みつる)さんは8歳下です。
いつも兄を慕って「一緒に行きたい」とついてくる弟たちの存在は、複雑な家庭環境の中でも横山裕さんの心を和ませました。
「弟たちがいてくれたから、自分は頑張れた」――そんな気持ちが横山裕さんの胸に深く刻まれていたのでしょう。
母の病と家庭崩壊、弟たちの児童養護施設入所

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しかし、幸せな時間は長く続きませんでした。ミナコさんが胃がんを発病し、家庭は一気に崩壊します。
ミナコさんの胃がんが発覚したのは、横山裕さんが10代後半からデビュー前の20代前半の頃だったと言われています。
義父との関係も悪化し、やがて両親は離婚を決断。生活は困窮し、母ひとりで3人の子どもを育てるのは難しい状況に陥ります。
まだ幼かった雅行さんと充さんは、やむを得ず児童養護施設に入ることになりました。
横山裕さんは「自分が家族を支えなければならない」と強く感じ、東京で芸能活動を続ける覚悟を決めます。
弟たちと一緒に暮らす道を断念し、成功することで家族を取り戻そうと決意したのです。
中卒で建設現場とジャニーズを両立

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横山裕さんは中学時代、友達が遊んでいる時もアルバイトを掛け持ちするなど家計を支えていたといいます。
中学3年生の時に履歴書を書いたものの住所がわからず送れず、その後、母親が送り、オーディションを受けることに。
面接では滝沢英明さんに怒られたそうですが、そのことで喜多川元社長に声をかけられ、ジャニーズに合格することができました。
中学校卒業後は建設会社に就職。みんなが制服で通う中、ニッカポッカの作業着のままジャニーズJr.のレッスンに通い、「ジャニーズは夢を売る仕事だから」と怒られることもあったといいます。
工事現場で汗を流した後、すぐにダンスレッスンへ向かう過酷な日々。
体力的にも精神的にも限界に近い生活でしたが、「家族のため」と踏ん張り続けました。
ジャニーズでの仕事が忙しくなり、建設会社を辞める際にも、上司から「ダメだったらいつでも戻ってこい」と送り出されたというエピソードは、横山裕さんの真面目さを物語ります。
東京進出と弟たちを想う心の葛藤

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芸能活動の拠点を東京に移した横山裕さんは、弟たちと離れて暮らすことになりました。
テレビで成功を掴みつつも、「弟たちは施設でどんな気持ちで過ごしているのか」と心に引っかかっていたのです。

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その後、ミナコさんは2010年に虚血性心疾患で50歳の若さで他界しました。
胃がんとの関係性は不明ですが、スーパーで突然倒れ帰らぬ人に。
当時、ソロライブ中だった横山裕さんは「おかんに怒られる」とライブを中止せず、母を想って作曲した「オニギシ」を号泣しながら歌いました。
施設で知った弟の本当の気持ち

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24時間テレビの中で横山裕さんは、弟たちが暮らしていた児童養護施設を20年ぶりに訪問しました。
そこで見せてもらったのは、職員が当時書き残した日誌でした。
「横山さんがテレビに出ると、弟が小さな声で『きみ兄ちゃんだ!』とつぶやき、先生に抱きついて喜んでいた」「兄に会いたくてホームシックになった夜があった」――そんな記録を読み、「離れていても弟たちに必要とされていた」と胸を打たれました。
自分が選んだ道は無駄ではなかったと感じた瞬間だったのです。
横山裕の半生年表

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- 1981年 大阪に生まれる
- 1984年(3歳) 両親が離婚
- 1986年(5歳) 母が再婚、義父との関係に悩む/祖父母に支えられる
- 1991年頃 次男・雅行さん(6歳下)、三男・充さん(8歳下)が誕生
- 1997年(16歳) 中卒で建設会社に就職、ジャニーズJr.として活動開始
- 2000年代前半 母が胃がんを発病、義父と離婚/弟たちが児童養護施設へ
- 2004年(23歳) 関ジャニ∞としてCDデビュー
- 2010年 母が虚血性心疾患で急逝(享年50)
- 2025年(44歳) 「24時間テレビ48」で105kmを完走
まとめ|差し入れに込められた家族の絆
横山裕さんが握りしめた2リットルのペットボトルは、幼少期の複雑な家庭環境、母や祖父母の支え、弟たちとの別れと再会、そのすべてを背負った象徴でした。
それは「家族として互いに支え合い、絆を確かめ合う関係」の証です。
105kmを走り抜けられたのは、自分ひとりの力ではなく、今も続く家族のつながりが支えとなり、背中を押してくれたからです。
弟からの差し入れは、横山裕さんにとって家族の歴史を再確認できる力の源だったのです。
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