歌手や俳優として、TVでも活躍中の山崎育三郎さん、実はヤングケアラーだったんです。
「ミュージカル界のプリンス」と脚光を浴び、芸能人として華やかな道を歩いてこられたに違いないと思われていた方も多いかと思いますが、とても苦労された方だったんです。
それにしても山崎育三郎さんが、ヤングケアラーにならざるを得なかった理由が気になりますよね。
今回は山崎育三郎さんの当時の家庭環境や両親の離婚理由、どのような介護生活だったのかについて調べてみました。
ヤングケアラー時代の家庭環境や生活とは
ヤングケアラーとは
ヤングケラーとは家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子どものこと。
引用元:https://carersjapan.com/about-carer/young-carer/
ヤングケアラーだったのはいつ頃
山崎育三郎さんがヤングケアラーをしていた時期は2003年頃で、2002年の高校2年生から1年間アメリカへ留学し、帰ってきたタイミングでした。
留学中に両親が離婚し、東京の実家に戻ったが、「長男はアメリカの大学、次男はニュージーランド、弟は甲子園を目指して香川の尽誠学園に、父親は仕事で北海道に転勤…」と家族はバラバラ。唯一、実家にいた山崎が、父の両親である祖父母の介護をすることになった
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/99ba765bb46c0f068c4c59e4298fc321e22fdc6b
留学中に両親が離婚、兄弟は三人とも留学や寮生活で家におらず、頼りの父親は仕事で北海道に単身赴任…と家族はバラバラになったのです。
残された山崎育三郎さんが祖父母の介護をしなければならなかったのですね。
介護する祖父母は山崎育三郎さんが小学生の時に脳梗塞を患い、祖父は認知症、祖母は右半身不随で車椅子生活という状態だったそうです。
1人を介護するだけでも大変なことですよね。
それにもかかわらず、高校生が1人で2人の世話しなければならないなんて、家族とはいえ、さぞかし大変だったでしょうね。
ヤングケアラーの問題点の1つには、家族のデリケートなことであるが故に、問題であることを当事者が自覚しにくいため相談されず、周りに発見されない点があります。
そのため、実際のヤングケアラーの数は、相当な数字なのではないかと言われているんですね。
山崎育三郎さんの当時の生活はどうだったのかというと、
毎日朝ご飯を作って、食べさせて、トイレ連れてって。僕が高校に行くタイミングでヘルパーさんが来て、バトンタッチする。高校から戻るとヘルパーさんが帰る。また一緒にご飯食べて、お風呂入れて、着替えさせて寝かせる。みたいなのをやっていました。
引用元:https://www.asahi.com/articles/ASR2766YFR23UCVL007.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
簡単に言っているように聞こえますが、並大抵のことではないですよね。
大人2人をトイレに連れて行ったり、お風呂に入れるなんてどれほど大変だったでしょう。
さらに、
ずっと(介護)やってると、孫にやってもらってる、って感覚もなくなってきて。お手伝いにきてくれる人、みたいな感覚に。(料理を)作っても、手でバーンとはじかれるし、『ありがとう』も言わなくなるし。学生の僕が二人を看る
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/99ba765bb46c0f068c4c59e4298fc321e22fdc6b
最初は孫に介護してもらっているという感覚から、感謝や申し訳ないという感情もあるのでしょうが、長くなると当たり前になり、ヘルパーと同じような感覚になってしまう人もおられるのかもかもしれません。
なぜ学生の自分がしなければいけないのか、これほど頑張っているのに感謝もされず何のためにやっているのか、他の友達は楽しそうにしているのに自分には勉強する時間も遊ぶ時間もないなどいろいろな感情が湧き上がっては、解決しない日々が続いていたのではないでしょうか。
山崎育三郎さんが
両親の離婚理由
先ほども説明しましたが、祖父母は、山崎育三郎さんが小学生の時に脳梗塞を患い、祖父は認知症、祖母は右半身不随で車椅子生活という介護状態でした。
つまり山崎育三郎さんの母親は、山崎育三郎さんが小学生の頃から介護を続けていたということです。
転勤が多い父はなかなか東京におらず、それまでは母が十数年間、ほぼ1人で父の両親である祖父母の介護をしながら働き、子育てもしてきました。
引用元:https://mainichi.jp/articles/20210311/k00/00m/040/156000c
山崎育三郎さんの母親は、2人介護と4人の育児を同時に十数年続けたということになります。
最近はワンオペ育児が話題となりますが、2人の介護と4人の育児のワンオペはとんでもない苦労ですよね。
母親は精神的にも肉体的にも追い込まれ、留学中の山崎育三郎さんに電話をしてきたことがあるそうです。
僕は、母の戦争のような日々を子供の頃からずっと見ていたし、親元を離れて米国で過ごす中で自信と自立心が生まれていたので、祖父母の介護を決断しました。当時は「子育てしながら介護もしてきた母に比べれば、数年間なら僕1人でも大変じゃない」と思っていたんです。
引用元:https://mainichi.jp/articles/20210311/k00/00m/040/156000c
介護を始めて2、3年が経ち19歳で「レ・ミゼラブル」のオーディションに合格することで、ヤングケアラー生活は終了しましたが、その間たった1人での介護は、私たちが想像するよりもよりも辛い日々だったことでしょうね。
支えてくれた親友
実は山崎育三郎さんの辛い介護生活を支えてくれたのは、中学生時代からの2人の親友です。
祖父母を介護施設へ連れて行ってくれたり、買い物や食事のサポートにも付き合い、祖父母の鍋料理を囲み和気あいあいと過ごすなど家族のように同じ時間を過ごしてくれたそうです。
山崎育三郎さんはNHK「SONGS」に出演された際に、ヤングケアラーの経験について、辛い日々を送る中で、なぜ自分が見なきゃいけないんだと葛藤しながらも、2人のこうしたサポートが励みとなって、乗り越えることができたことがたくさんあったとお話しされていました。
1人では、もしかしたら乗り越えられないかもしれないことも、周りの支えがあれば乗り越えられることも多いはずです。
山崎育三郎さんと2人の親友は、12歳から毎年必ず年末年始に会うなど、現在でも大親友だということです。
世間の反応
世間の反応をまとめてみました。
まとめ
今回は山崎育三郎さんの当時の家庭環境や両親の離婚理由、乗り越えることができた理由について調べてみました。
一見華やかに見える山崎育三郎さんですが、実はとても苦労されていたんですね。
過去の苦労も現在の活躍になんらかの影響を与えているでしょうし、支えてくれた方々への感謝も言葉では言い表せないほどですよね。
今後益々の活躍を期待しています。
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